明治十八年創業
当店は、初代・内田長吉が榮太樓總本鋪で修行した後、暖簾わけを許され、1885(明治18)年、芝の地に「芝神明 榮太樓」として和菓子屋を創業いたしました。
当時、すでに何店舗か暖簾わけの「榮太樓」があり、そのどれもが總本鋪のある日本橋界隈にて営業をしておりました。長吉は、お世話になった總本鋪のお客様をいただくようなことがあってはならないとの想いから、日本橋から離れた芝の地を選んだと伝え聞いております。
当店のロゴマークは、榮太樓總本鋪のものに「芝」の字を書き添えたもので、初代が總本鋪で修行した証でございます。
時代の流れとともに変化していく味覚
和菓子は「餡」が命。
よく言われる言葉です。しかしながら、50年前と同じ小豆を作ってくれる生産者はいません。なぜなら、小豆のメインの生産地は北海道です。9月中旬という早い時期に霜がおりることがあります。そうすると、何ヘクタールもの小豆が全滅してしまい、生産者は大変な思いをします。また、このようなことが多くあると、小豆を作ろうという気持ちから遠ざかってしまうものです。そういった状況を打破すべく、現在に至るまでに「育てやすく、美味しい小豆」となるよう、品種改良が繰り返されてきております。
また、先代から教えられたどら焼きは、「三同割」と言い、主原料である卵・砂糖・小麦粉を1:1:1とした基本配合のものでした。しかしながら、現代の人々にとっては、この配合で作ったどら焼きは非常に重く感じられ、決して美味しいと思っていただけるものではないと思います。
このように、時代時代で嗜好も変わってきます。
「美味しい」と感じていただけるお菓子を提供していきたい…。和菓子を作るときは、常々そんな願いをこめております。様々な困難が伴う現代において、当店では少しでも品質の良い素材を安定して入手し、ご提供することをめざしています。お客様に「美味しい」と感じていただけることに繋がるからです。また、大手のお菓子メーカーさんは、時代に合わせてロゴマークを少しずつ変化させているということも耳にしたことがあります。当店のお菓子づくりも、様々なことを感じながら日々の気づきを大切に、より高みをめざして努めてまいります。
街の和菓子屋
創業時の浜松町・大門エリアは、「芝に生まれて神田に育ち…」と端唄にもあるように、江戸っ子気質の人々が多く住む下町でした。今ではオフィス街となりましたが、徳川家の六将軍が埋葬されている増上寺、俳句の季語にもなっている「だらだら祭り」を祭礼とする芝大神宮など、国の重要文化財に指定された神社仏閣も建ち並ぶ地でございます。そのため、観光スポットでもあり、多くの人で賑わいます。
近年は都市計画も進み、街並みが変化してきておりますが、この芝の土地に携わっている方、住んでいる方、お勤めにいらしている方、観光でいらっしゃる方など、多くの方々に喜んでいただける和菓子屋をめざしております。何十・何百個の商品を製造し、販売したとしても、お客様に届く商品のすべてに心をこめてお作りいたします。数多くの和菓子屋があるなかで当店にご来店いただいたことに、ありがたいご縁と感謝を感じ、日々精進してまいります。